Jul 04, 2011

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 3月11日に発生した東日本大震災。私はなぜか現地に行きたい衝動が生まれた。はっきりとした「仕事」としてではなく、とにかく現地へ行き、見つめ、伝えたい。伝えなければいけないという思いに駆られた。そのため、発表媒体を決めずに動くことにした。媒体から「GO」が出てからでは、初期の現場に踏み込むことはできない。そう思った。だからこそ、まずは車の調達から始めた。

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 当初、レンタカーの確保は難しかった。東北方面へのレンタカーは自粛しているとの情報が入ったため、車を持っている友人たちを探した。車のアテがついたら、次はガソリンの確保が課題だ。震災当初、ガソリンが不足し、ガソリンスタンドは大渋滞になっていた。現地に入るための課題がいくつもあった。完全にクリアとなるまでも待ってはいられない。とにかく現地に向かうしかない。車を持っていたフリー編集者と出かけることにした。

 福島県相馬市。福島県は西の会津、中央の中通り、東の浜通りと3つのエリアに分かれている。相馬市は浜通りの北部に位置する。これまでに2回訪れているが、1回目は、都内から東北道の福島西ICで降り、相馬郡飯舘村を経由した。ちなみに、飯舘村は原発に隣接する南相馬市よりも、放射能の数値が高くなっている。海から風が山間部に吹き付けるためだろう。2回目は、東北道から仙台南部自動車道を通り、常磐道を南下した。走行距離は1度目のルートの方が短いが、走行時間は変わらない。

 相馬市は山村部から田園風景、市街地と連なっていく、よくある地方都市の一つである。原発問題に揺れている南相馬市は緊張感が漂い人通りも少ないが、その北に位置する相馬市はとどまっている人も多い。交通量も多いが、原発問題もあって、ボランティアは少ない。私が一度目に行った3月26日には、すでに相馬市長の訴えにより、物流も良くなっていた。ほとんどお店が開いてない南相馬市と比べると開店している店は多いが、スーパーやコンビニエンスストアなどでは品不足が続いている。

●この先、どうすればいいんだろう

 避難所になっている市総合福祉センター「はまなす館」。この避難所の駐車場で車中泊をしていたら、午前6時頃、ボランティアの女性に「家がないのですか?」と声をかけられた。「報道です」と説明すると、「たくさん取材していって」と言われた。朝早かったので遠慮していたが、その女性の言葉に甘えさせてもらうことにした。

 はまなす館では、小中学校の子どもたちのほか、教師たちも一緒に避難生活をしていることが分かった。避難所には未就学児が4人、小学生が16人、中学生は7人がいた。相馬市立磯部小学校(118人)と磯部中学校(68人)は生徒が少ないため、日頃から密接に連携をとっている。避難所では小中学校の教師たちが交代で子どもたちを見守っている。3月26日に訪れた際、31日に磯部小学校の卒業式が開かれると聞いた。

 3月31日、再び「はまなす館」を訪れた。ロビーにはたくさんの子どもたちの笑顔があった。11日の震災以来、同級生が集まるのは久しぶりのことだ。

 当時、学校を早退して、家で寝ていた時に地震にあった曵地有理さん(12)は「いろいろなものが流れたけど、みんな耐えてよかった。友達に会えてうれしい。でもこの先、どうすればいいんだろう」と不安そう。寺島有華さん(12)は学校から帰宅中に地震にあった。家に帰ると、津波に備え家族みんなで高台に避難した。「ただ呆然と津波をみていました。いまは親戚の家にいます。今日はみんなと会えてよかった」。寺島豪くん(12)は「もう、嫌なことばかりだよ」と私に近寄ってきた。そして「津波がきた磯部にはもう住みたくない。最近はよく波に飲み込まれる夢を見るんです。でも、相馬には住みたい」と話した。

●入学式は中止、学校再開のめど立たず

 避難スペースとして利用していない実習室に集まった磯部小学校の卒業生は、年度末のこの日、ようやく卒業を迎えることができた。しかし、相馬市では小中学校の入学式は中止。学校再開のめどは立っていない。

 同校では3月23日に卒業式を行う予定だった。しかし震災があり、延期となっていた。卒業生32人のうち26人が出席し、ジャージ姿の箭内(やない)晴好校長から卒業証書を受け取った。箭内校長は「卒業おめでとうございます。今日来れなかったお友達もいますが、心はみんな一つにつながっている。どうか授かった命を大事にがんばってほしい。みなさんの中学校での夢の実現に向けて応援しています。お父さん、お母さん、地域のみなさんの活躍を心から願っています」などと短めの挨拶をした。

 箭内校長は取材に対し「(今日の卒業式は)子どもたちの中では一つの区切りです。これをステップに生き抜いてほしい。ただ、複雑です。『おめでとう』なのですが、いまだに行方不明の人もいる。大声では言えない。何かやりきれない思いでいっぱいです。しかし負けてはいられない。前に進み出すしかないんです。知恵を出せば、人間は復活できます。ひとつひとつの課題を解決していきたい」と涙を拭きながら話した。

 この日は在校生の終業式でもあった。式は在校生の代表が箭内校長から「修了証書」を受け取った。5年生の押山海人君(11)は「小学校で終業式が行われないのは寂しい。みんなバラバラになりたくない」と寂しげな表情だった。「友達に会えてよかった」というのは渡辺智也君(11)。「僕らの時はちゃんと小学校で卒業式をしたい」とも。

●春休み、ディズニーランドに行くはずだった

 3月26日に訪れたとき気になる子どもがいた。一人で遊んでいた大和田茜ちゃん(9)だ。「勉強してるの?」と声をかけると、茜ちゃんは「理科が好き」とこたえてくれた。「春休みにディズニーランドに行くはずだった」とも教えてくれた。しかし、地震の話になると口を閉ざした。

 私は茜ちゃんともう一度会いたいと思った。そのため31日に訪れたときも茜ちゃんを探した。私が茜ちゃんを見つけると、すこし照れた様子で、「今日は楽しかった」と話してくれた。この日はいつもよりも1時間早く目覚めたという。そして、地震の時のことを教えてくれた。

 「地震があった時、泣いて、音楽室のピアノの下に隠れた。帰宅後は津波の心配から車で高台へ逃げた。そして、津波に家が飲み込まれるのを見ていた」

 子どもなりにいろんなことを考えて、悩み、そして我慢している避難生活。多くの子どもたちが地震のことをまだ思い出す。地震や津波、さらに放射能による避難で、大人でさえ正常な心理状態ではなくなるかもしれない。大人の姿は子どもにも伝わる。ただ、子どもたちを癒す側の大人たちに余裕がないように感じた。

 この震災が大規模になると分かったとき、私の頭に浮かんだのは、子どもたちの心のケアの問題だった。1995年の阪神大震災を取材した時、小学6年生(当時)の女子児童が、いつまでも地震におびえ、熊のぬいぐるみを手放せないでいたことを思い出したからだ。そのためこの震災を取材するのなら、子どものことを中心にしようと思った。

 「相馬を離れたくない」。子どもたちは一様に口をそろえる。大人たちの中には「相馬を離れるかどうかを迷っている」といった声も聞くが、子どもたちは震災体験をして、よりふるさとへの思いを強くしたのかもしれない。「またこの子どもたちに会いに来よう」。私はそう思った。

 なおこの日、同館で磯部中学校でも終業式が行われた。

●渋井哲也(しぶい・てつや)氏のプロフィール

 1969年、栃木県生まれ。フリーライター、ノンフィクション作家。主な取材領域は、生きづらさ、自傷、自殺、援助交際、家出、インターネット・コミュニケーション、少年事件、ネット犯罪など。メール( hampen1017@gmail.com )を通じての相談も受け付けている。

 著書に『自殺を防ぐためのいくつかの手がかり』(河出書房新社)、『実録・闇サイト事件簿』(幻冬舎)、『解決!学校クレーム』(河出書房新社)、『学校裏サイト 進化するネットいじめ』(晋遊舎)、『明日、自殺しませんか?』(幻冬舎)、『若者たちはなぜ自殺するのか?』(長崎出版)など。メールマガジン 「悩み、もがき。それでも...」を刊行中。


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Posted at 10:16 in Funds | WriteBacks (0) | Edit
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